■心身楽々堂 Story


心身楽々堂ができるまでのストーリーをご紹介いたします。

代表 西田 聡の生い立ちや経歴を記したものですが、これまでの人生経験はすべて、この仕事をするためにあったのだと強く思うため、ご紹介をさせていただきます。

この世に生を授け、愛情いっぱいに育ててくれた両親、私を導いたり応援してくださった方々、私を支えてくれる家族、そしてすべてを支配する目に見えぬ大いなる力に心から感謝をいたします。
ありがとうございます。

幼少時代

誕生!巨大赤ちゃん!

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私は1960年(昭和35年)11月、大阪府枚方市で生まれました。
出生時の体重は、3,900グラム。
かなり巨大な赤ちゃんであったそうです。

父は商社勤務のサラリーマン、母は専業主婦。
ごく普通の一般的な家庭で育ちました。

しかし、父方の祖父は画家であり、母方の祖父は写真家であったためか、芸術家の血筋を多少は引き継いでいるようです。
そのためか、小さい頃から絵を描くことが大好きでした。
また、好きなことをして生きよう、自分の腕一本で独立自営してやろうという気概は、もしかしたら、この祖父たちから受け継いだのかも知れません。

ただ、私の両親は、自営業がいかに不安定で厳しいものであるかを身をもって知っておりましたので、安定した収入があるサラリーマンの道を選択し、それが一番だと考えていたと思います。
父は家族のことを第一に考え、ひとつの会社を定年まで勤めあげました。
そのようにして育ててくれた両親には、本当に感謝をしております。

神童!?と期待された幼少期

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幼少の頃の私は、クルマが大好きでした(整体に関係なくて恐縮です ^-^; )。

2歳の頃、買い与えられた外車の本に載っている車種をすべて記憶していたそうです。
また、ホイルやバンパー等、クルマの一部を見ただけで、その車名を当てたりするので、周囲の大人たちは「この子は神童か!?」と期待をしたようです。
残念ながら、その期待は見事に外れてしまったのですが。

その一方で、人体にも興味をもっていました(やっと、整体らしくなってきました ^-^ )。
病院や医院の壁に掲げられた解剖図を眺めるのが好きでした。
また、人体スケルトン模型や骨格模型が欲しくてたまらなかったことも、かすかな記憶として残っています。

小学校時代

楠葉へ転居

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小学校一年生の時、現在も居住している町であり、心身楽々堂の開業地でもある楠葉に引っ越してきました。

当時の楠葉は、田畑が多く、新興住宅地であった我々の住まいのある楠葉中町にも10軒ほどしか家が建っていませんでした。
あれ以来40数年、楠葉は大きく開け、とても立派な町になりました。

当時から人々が親切で、静かで平和な町でした。
今も、その良さが守られていると思います。
その良さが守られるよう、私も地域貢献につながる取り組みをして参ります。

意外!?苦手科目は体育?

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小学生の頃、苦手な科目は、なんと体育でした。

身体を動かすのは大好きで、水泳やスケートなどは器用にこなすのですが、競ったり争ったりするのが大の苦手。
つまり、上手下手や速い遅いを比較されたり、順位を競わされたり、また勝ち負けに躍起になり過ぎると、どうも身体がうまく動かないのです。
「相手に勝つ」「相手を負かす」という感情を抱くことにも、なんとなく抵抗がありました。

この頃より、武道に興味を持っていました。
しかし、上記の理由により試合をすることが苦手だったので、当時流行していた剣道は、とてもやる気になれませんでした。

また、一度だけ空手教室に体験参加しましたが、腕立て伏せが満足にできず、先生からひどい罵声を浴びせられ、それだけで嫌になってしまいました。
この時に深く傷ついた経験が、その後、人に接したり、人を指導する時の心得として、とても活きているように思います。

中学校時代

ブラスバンド部に入部

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クラブ活動は、最初は卓球部に入部しました。
しかし、入学後しばらくして足を骨折したため、練習ができなくなり、やむを得ず退部しました。

そして、興味のあったブラスバンド部に入部しました。
運よく欠員があったため、最も人気の高いパートであるトランペットを担当することができました。

このブラスバンド部は、毎年のコンクールで上位入賞する名門であったため、練習はかなり厳しかったです。
放課後の練習はもちろん、毎朝練習があり、早朝に登校して練習に励みました。
また、夏休みもほとんど毎日が練習でした。

全員が一体となって調和し、ひとつの曲を奏でる感動・・・私はすぐに夢中になりました。
厳しい練習でしたが、楽しくて仕方ありませんでした。

なお、管楽器の基礎練習として、ロングトーンというものがあります。
これは、長時間、安定した音色を出すための訓練であり、練習時間の半分くらいは、このロングトーンに費やしていたと記憶しています。
後に武道稽古の中で呼吸法の鍛錬をするのですが、私は管楽器の練習を通じて、知らず知らずのうちに、呼吸力を身に付ていたのではないかと考えています。

武道への憧れ

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なぜか理由はよくわからないのですが、武道をやってみたいという気持ちをどこかに持っていました。
しかし、当時、学校には剣道部か柔道部しかありませんでした。
中学校で行う剣道や柔道は競技スポーツの一種であり、とても自分には向いていないため、入部する気にはなりませんでした。

武道に詳しい友人に連れられて、空手道場の見学に行ったりもしました。
しかし、やや遠方であることや、月謝が必要なことなどから、断念しました。

その武道に詳しい友人が、合気道の存在を教えてくれました。
さっそく書店で教本を買い、むさぼるように読みました。
剣道や柔道とは違う、不思議な武道という印象であり、ぜひ習ってみたいと思いました。
しかし、どこへ行けば習えるのか、かいもく検討がつきませんでした。

高校時代

またブラスバンド部に入部

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今度こそ運動部へ!と思っていましたが、中学時代の先輩から強く誘われ、やはりブラスバンド部へ入部しました。
二年生の時には、部長を務めました。
できたてのクラブであったため人数が足らず、コンクールへは出場しませんでしたが、学園祭への出演や他高校との共同演奏会など、楽しい思い出がたくさんあります。

ギターにも興味が発展

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音楽が大好きであった私は、部活のトランペットだけでは飽き足らず、ギターを弾くようになりました。
当時は自己流でアコースティックギターをつま弾く程度でしたが、いずれバンドを組んでみたいと思い始めました。
複数人や複数楽器で演奏する醍醐味は、ひとことで言うと「調和することの楽しさ」ではないかと思います。

大学時代

デザインを学んだ大学時代

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幼い頃から絵を描くのが好きだったこともあり、デザインの仕事がしたいと思い、京都工芸繊維大学の工芸学部意匠工芸学科に入学をしました。
個性あふれる学友たちにも恵まれ、とても楽しい学生生活を送ることができました。

3回生からは、インテリアデザインを専攻しました。
この頃に培った造形や色彩感覚、あるいはものづくり精神は、現在の仕事にも大いに役に立っていると感じます。
ただ、何を選ぶにせよ“こだわり”が強くなり、それが時として足かせになることもありますが(笑)

ちなみに卒業計画のテーマは「野外音楽堂の設計」でした。

アメリカ民謡研究会へ入部

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クラブは、アメリカ民謡研究会に入部しました。
といってもその名の通りアメリカ民謡を研究しているわけではなく、実態は軽音楽部でした。

楽器はエレキギターを担当し、いくつかのバンドを組んで演奏をしました。
和製ポップスからウェストコースト、ハードロックやオリジナル曲など、幅広いジャンルの音楽を演奏していました。

3回生の時は、副会長を務めました。
60名を越える大所帯のクラブでしたが、和気あいあいとした楽しいクラブでした。

企業実習に参加、社会を垣間見る

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4回生になる直前の春休み、企業実習というものがありました。
これは、大学から一般企業に依頼をし、ある一定期間学生に企業勤務体験をさせるというものです。
現在では「インターンシップ制度」などと呼ばれているものです。

私は、ある大手ゼネコンの設計部でお世話になりました。
たいへん良い先輩に恵まれ、生きたデザインや、会社員生活の勉強をさせていただきました。
クライアントの前でのプレゼンテーションまでさせていただき、現実のビジネスの厳しさを体感しました。

写真は、その先輩方と自転車で伊勢旅行をしたときのものです。
ものすごくしんどい思いをしましたが、一生忘れられない旅行となりました。

社会人時代

埼玉の工場へ配属

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大学を卒業すると同時に、ある大手印刷会社へ就職しました。

この会社は当時「拡印刷」を標榜していました。
印刷を核に、次々と新分野へ事業拡大している革新性に魅力を感じ、入社を希望しました。
業界最大手の会社でもあり、大きな夢と希望をもって入社しました。

念願通り、企画部門に配属はされたのですが、最初の勤務地は埼玉の工場でした。
その企画部門は印刷工場の中にあり、工場に対して指示を出したり、工場と一緒にものづくりをする役割を担っていました。
職場の多くの方は、工員さんと同じ「職服」を着ていました。
大都会で最先端の仕事をする!と意気込んでいた私は、とても落胆しました。

すぐに逃げ出したくなりました。
しかし、就職を世話してくださった恩師の「何があっても三年は我慢しなさい。必ず得るものがあるから」という言葉を思い出しました。
上司や先輩など周囲の方々にも恵まれていたので、腰を落ち着けることにしました。

工場の方々との対話

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私たちの主な仕事は、工場の工員さんに指示をして、ものづくりをすることでした。

工員さんのほとんどは、私より年上でした。
父親に近い年齢の方もおられました。

そのせいか、最初は「この若造が、大学出だと思って、えらそうに」と言われたり、睨まれたりしました。
言うことを聞いてもらえないこともたくさんありました。
立場を利用して、強引に押し通すこともできたのですが、私はやりたくありませんでした。

どうすれば、工員さんに認めてもらえるだろう?
どうすれば、工員さんに気持ちよく動いてもらえるだろう?
どうすれば、自分の仕事をうまく運ぶことができるだろう?

それを一生懸命に考えました。
失敗続きで、会社へ行くのが嫌になったこともあります。
でもあきらめず、あの手この手で、工員さんたちと、うまくコミュニケーションをする努力をしました。

その結果、少しずつ認められるようになりました。
中には「西田の仕事ならやってやる!」と言ってくださる方もいました。

この時に悩みぬき、工夫や努力をしたことが、その後の人生に大きく活かされていると思います。

自己啓発に目覚める

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たいへんに不遜な言い方になりますが、本音を言うと、私は不本意な部署や勤務地に配属されたのです。
その反動もあり、私は「今後、どこででもやっていける人間になろう」と考え、自己啓発に励むようになりました。

具体的には、本をよく読むようになりました。
成功哲学のような自己啓発を始め、経営哲学や組織論、マーケティングやマネジメントなど、ありとあらゆるビジネス関連書籍を読みあさりました。

また会社が用意してくれている研修や通信講座なども積極的に受講しましたし、外部のセミナーや講習会、異業種交流会などにも参加しました。

人生の師匠との出逢い

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読書を重ねる中で、感銘を受けることが多々ありました。

その中で、きわめて大きな影響を受けたのが、ライフスタイルプロデューサーである浜野安宏先生でした。

浜野先生のほとんどの著書を読み、その偉大な功績はもとより、桁違いにスケールの大きな考え方、生き方、そして何よりも一人の人間としてどこまでも純粋で正直な姿に、心底感銘を受けました。

浜野先生に会いたい!
何としてでも会わなければ!

その一心で手紙を書き、会っていただく機会を得ました。
できれば、先生のもとで働きたい・・・そんな無謀で自分勝手なことさえ考えていました。

当時、横浜にあった先生の事務所を訪ねました。

実際にお目にかかったときの感動は、忘れません。
圧倒的な存在感、凄味と迫力、懐の深さ・・・
これまでに受けたことのない、強烈なインパクトを感じました。

先生はものすごくお忙しい中、時間をとってくださいました。
真摯に私に向き合ってくださり、話をしてくださいました。
そして、やさしく私の無謀ぶりを諭してくださいました。
あの時ほど、自分の矮小さや姑息さを思い知ったことはありません。

その時、先生は「著作は、あくまでも虚像だから・・・」とおっしゃいました。
しかし、私はそうではないと思います。
すべての著作に、一貫した先生の魂や想いを感じます。

以来、私は一方的に、浜野先生を人生の師匠と決めました。

いつかサラリーマンを辞め、自分の腕一本で生きていこう。
自分の信念や生きざまを、広く世に問おう。

そう考えるようになったのは、浜野先生の影響です。
そして、

浜野先生に恥ずかしくない生き方をしたい。

いつもそう思ってきました。
それが、整体師へ転身する、大きな原動力となりました。
その想いは、今も変わっていません。

海外出張で得たもの

30歳前半で、海外出張を経験いたしました。
社命により約二週間、ドイツとフランスに滞在しました。

仕事のみならず、プライベートでも現地の方々と触れ合いました。
慣れない町を歩き、異文化を生で感じました。
その時に、ふたつの大きなインスピレーションを得ました。

人生は、楽しむためにある!
やろうと思えば、何でもできる!

その導きをしてくれたは、パリに住む家内の叔父でした。
今は故人ですが、パリと日本の文化や風土の違いを教えてくれました。
この経験が、日本を見直すよいきっかけとなりました。

「うつ」になる

30代半ばで、大きな組織異動を経験しました。

私の当時の勤務先は、従業員数が数万人の大きな企業でした。
ゆえに、事業部をまたがる異動は、転職に近い感覚でした。
ほとんど一からのスタート。
それまで培った仕事のノウハウ、人脈などは、あまり生かせません。

新しい仕事は、やりがいがある一方で、大きなプレッシャーでもありました。
なぜなら、30代半ばといえば、大ベテランです。
にもかかわらず、自分は新入社員とほどんど変わらない状態。
慣れない仕事であり、戸惑うことも多い。

そのギャップを埋めるために、早朝出勤し、深夜帰宅をする毎日。
就寝時も、休日も、気が休まらない。
常に何かに追われており、不安で不安で仕方がない。
そんな日々を送りました。

そのうち、食欲が落ち、眠れなくなり、体重が激減しました。
新聞やテレビをみるのが、怖くなりました。
大好きな本も、読めなくなりました。
あろうことか「消えたい、死にたい」とまで思う始末です。
年齢は、40歳手前くらいだったと思います。

出口の見えない、真っ暗なトンネルと独りで歩いている。

一言で申し上げると、そんな感じです。
誰にも相談できず、毎日、苦しんでいました。
そんな状態が、数年間続きました。

どうしようもなくなって、心療内科へ飛び込みました。
問診とテストの結果、「うつ」と診断されました。
そう診断されて、とてもほっとしたことを覚えています。

この時の経験が、いま非常に役立っています。
なぜなら、苦しい人の気持ちが、手に取るようにわかるからです。
また、うつから立ち直った経験が、整体師に転身するきっかけにもなっています。

武道稽古で得たもの

合気道への憧れ

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私は、中学生の頃から合気道を習いたいと考えていました。
ここで合気道について、少し説明をします。

「合気道は和の武道」と言われています。

合気道は、現代武道のひとつです。
植芝盛平翁先生(右の写真の人物)が、ご自身が修得された大東流合気柔術をはじめとする古武術の数々と、古神道の教えをあわせ大成されたものと、私は理解をしています。

ここで、翁先生の言葉を引用いたします。
これを読むと、なぜ自分が合気道に憧れ、合気道を習いたいと思うようになったのかが、よくわかる気がします。

真の武道には相手もない。敵もない。真の武道とは、宇宙そのものと一つになることなのです。宇宙の中心に帰一することなのです。合気道においては、強くなろう、相手を倒してやろうと練磨するのではなく、世界人類の平和のため、少しでもお役に立とうと、自己を宇宙の中心に帰一しようとする心が必要なのです。合気道とは、各人に与えられた天命を完成させてあげる羅針盤であり、和合の道であり愛の道なのです。(『武産合気』)

合気道の稽古を開始

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30代半ばで、合気道の稽古を始めました。
地元枚方で、よい道場を見つけたのです。

身体を動かすことから遠ざかっていたため、最初はとても苦しかったです。

思うように、身体が動かない。
受け身をして、身体中を傷める。

そんな状態が、何年か続きました。
しかし、先生は「続けていれば、必ず上達するから」とおっしゃいました。
遅々として進歩しない私を辛抱強く、ご指導をくださいました。
この先生に出会わなければ、途中で投げ出していたことでしょう。

数年後には、先生から初段を允可いただきました。
黒帯になれるなど思っていなかったので、本当に嬉しかったです。

それからも稽古に励み、数年後に参段の允可をいただきました。
参段をいただくとは、指導者として認められたということでもあります。
以来、自分の修練はもちろん、初心者や後進を指導することに注力をしました。

他武道の稽古を開始

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合気道の参段を允可いただいた頃から、他武道への興味が増してきました。
合気道をご指導くださっている先生にお断りをした上で、他道場の門をたたくことにしました。

そのひとつは、大東流合気柔術です。
大東流は、武田惣角師が、明治から昭和初期にかけて、全国で伝え回ったとされる、武田家に伝えられた古流柔術と言われています。
合気道開祖である植芝盛平先生が、多大な影響を受けた武術のひとつです。
私は、合気道を理解する上で、どうしてもやってみたくなったのです。

他にも、空手道や、合気道他流派の道場へも通いました。
でもすべては、合気道を深く理解するためであったと思います。
お世話になった諸先生方には、深く感謝いたしております。

身体調整や健康法に興味が発展

そのうち、武道稽古だけでなく、身体調整や健康法全般に興味が発展してきました。
以下、2008年の元旦に執筆したブログ記事より引用します。
http://hotshark.exblog.jp/6626751/

第一の趣味である武道ですが、枚方合気道同好会で合気道の稽古を始めてから、10年以上が経ちました。
10年経ってやっとその奥深さ、おもしろさがなんとなく見えてきたというのが実感です。
始めた当初は昇級も考えていませんでしたし、自分が黒帯を締めるなんて夢にも思いませんでした。
まさに“継続は力なり”です。

今や合気道は私の人生の根本的指針であり、心身のバックボーンともいうべきものであります。
決して大袈裟でなく、もし合気道の稽古をしていなかったら、今頃私は生きていなかったかも知れません。
合気道の稽古から学んだこと、合気道の稽古を通じて知り合えた方々は、私にとってはそれほどまでに、とても大切です。
そういう意味で、遅々として上達しない私を根気よくご指導くださる先生、稽古に付き合ってくださる仲間たち、そして毎週稽古に通わせてくれている家族には、なんと感謝してよいかわからないほどです。
本当にありがとうございます。

昨年は合気道とは別に、大東流合気柔術の道場へ入門し、週に2~3回の稽古に通い始めました。
大東流合気柔術とは、日本に古来より伝わる戦闘技術をベースにした武術です。
合気道開祖である植芝盛平翁先生が武田惣角先生より伝授され、大きな影響を受けた武術のひとつであります。
合気道とは別物と認識しながらも、私も以前からとても興味をもっており、武道をより深く探索するためにぜひ習ってみたいと思っておりました。
紆余曲折がありましたが、これまた縁あって、たいへん良い先生と稽古仲間に恵まれました。

昨年は、先生から三級を認めていただくことができました。

三級というと、大東流で定められている初伝一ヶ条型のうち、6~7割程度のものがなんとかカタチになったレベルだと私は認識しております。
一ヶ条で身につけるべき「詰め」や「中心を取る」技術は、恥ずかしながらまだまだ未熟です。
とはいえ、合気道で身につけた身体運用技術が大いに役立っていることは間違いありません。
武道において重要なことは共通していることを身をもって体感しております。
まずは昇段を目指し、今年はよりいっそう稽古に励みたいと考えております。

少しずつですが、他の合気道道場との交流や、合同稽古への参加等も始めました。
これらの経験が、自分の力不足を自覚したり、新しい気付きを得るたいへん良い機会になっています。
こういう人の輪を広げることができるのも、インターネットというインフラや、その上で提供される最新技術や各種サービス(ホームページ、電子メール、ブログ、SNS等)のおかげです。
本当に良い世の中だと、ありがたく思います。

武道稽古がきっかけとなり、最近は身体調整や健康法に興味が発展しつつあります。

そもそも武道稽古を始めたきっかけは、憧れもありましたが“よりよく生きたい”という欲求でありました。
ビジネスにおける究極のソリューションは“人間力を高める”ことだと、ずっと考えていたこともあります。
そのために人間を深く探求してみたい。
人間とは何か、生きるとはどういうことか、その答えを見つけたい。
それが、武道稽古に私を走らせ、次々に興味が展開していく大きな理由ではないかと思います。

昨年は究極の健康法である「西式健康法」に出会い、その一部である食事法を実践したおかげで、約半年で体重を10キロ減らすことができました。
ここ数年肥満気味であり、毎年の定期健康診断でも黄信号が灯っていたのですが、これでなんとか救われそうです。

またヨガ教室に通ったり、「セルフボディメイク」や「自力整体」等の実践も始めました。
これらは一見別々のものに見えますが、以下の点で共通しています。

  • 人間を全的なものとして扱う、心身をひとつのものとしてとらえる
  • 自分で自分を調整する、癒す
  • その結果として一人一人が本来持つ力を引き出す、自然治癒力を高める

最新の現代医療、特に西洋式医療は概して対症療法です。
症状を直接治める、悪いところを切除する、そういった治療が中心です。
もちろん最新の医療技術は素晴らしく、それで救われることも多いでしょう。
しかし、医者や薬に頼ってばかりでは、自分がもつ自然治癒力が衰えるばかりです。
医療技術が進んでも病人の数が一向に減らないのは、現代医療が抱える大きな問題ではないかと考えられます。

そういった現代医療偏重に対して警鐘を鳴らすのが、前述の西式健康法や、セルフボディメイクや自力整体だと思います。
もちろん、万能のものなどないと思います。
しかし、まずは安易に他者や薬に頼らず、自分の心身の健康に責任をもつこと。
自分の心身に目を向け、心身の声を聞き、自分の心身は自分で調整すること。
多くの人々の関心は徐々にそういったことに向きつつあるのではないか、そう感じています。

・・・と、えらそうなことを書いていながら、昨年は二度も手術入院を経験しました(笑) ⇒初めての入院
またこの年末は感染性胃腸炎に罹り、3日間も仕事を休んでしまいました。
仕事仲間や家族からは、何のための武道稽古や健康法や?と揶揄されています・・・

影響を受けた偉人たち

以下、私が大きな影響を受けた方たちです。

宇城憲治先生

宇城憲治先生
  • (株)UK実践塾 代表取締役
  • 宇城塾総本部道場 創心館館長
  • 心道流空手道範士八段
  • 全剣連居合道教士七段

甲野善紀先生

甲野善紀先生
  • 武術研究家
  • 松聲館主宰

高岡英夫先生

高岡英夫先生
  • 運動科学者
  • 「ゆる」開発者。
  • 運動科学総合研究所所長
  • NPO法人日本ゆる協会理事長・推進委員

伊藤 昇先生

伊藤 昇先生

一世一代の挑戦、整体師への転身

回復整体との出会い

2008年1月、合氣道を通じて知り合った友人から、ある整体療法を紹介されました。
それが、回復整体(回復法、からだのリセット療法)でした。

その友人は、介護の仕事をしていました。
友人によると、仕事で接するお年寄りに対して、回復整体の技法を施すと、拘縮やシビレ等が確かに改善するらしいのです。
本当に不思議な技で、彼はいずれこれで独立開業したいと申しておりました。

とても気になって回復整体のホームページを見ました。
ちょっとアヤシイけど、書いてあることはまともでした。
その整体学校の学院長が著書を出していたので、早速書店で買い求め、読みました。

「やってみたい」

そう思いました。
ちょうど1月末に京都でセミナーが開催される予定でした。
締め切りが、数日後に迫っていました。
しかし、受講料は50万円足らず。
二日間のセミナーにしては、法外な値段です。

しかし、ホームページに書かれていた次の言葉が私の背中を押しました。

成功の反対は、失敗ではない。
成功の反対は、行動しないことである。

いま行動しないと、自分は一生このままだ。
だまされていもいい、失敗してもいい。
とにかく動いてみよう。

覚悟を決め、行動しました。
そこから、私の人生は大きく変わり始めます。

故 村松幸彦先生との出会い

2008年1月末、京都で開催された技術セミナー。
そこで、当時、そのセミナーを主催した日本回復整体総合学院の副学院長であった故 村松幸彦先生に出逢いました

この整体技術やノウハウが本物かどうか、私はどうしても確認をしたく、村松先生につきまとい、次々に質問をしました。
懇親会の席でも、村松先生の隣に陣取り、お話を伺いました。
その中で、村松先生の口から、衝撃的なひとことが私の胸を打ちました。

「俺は、この整体で日本を変えたいんだよ」

これだ!
私は、やっと自分の求めていた道を見つけたと思いました。

時間はかかるかも知れない。
でも、いつか、整体師として、独立開業をする。
その決意をしました。

ある友人との出会い

技術セミナーで一緒に学んだ、一人の先生がいます。

彼は、この業界20年以上のベテランでした。
それまでに、家が何軒も建つほどのお金と労力をつくして学んだすべての手技を捨て、この技術一本に切り換えました。
よって立つ理論がまったく異なるため、そうせざるを得ないのです。

彼は、勇気をもって決断し、実践しました。
最初は、大きく経営が落ちたそうですが、素晴らしい症例を次々にだし、経営はV字回復を遂げたそうです。
同じ技術を学びながら、彼は日々、多くの人さまの役に立っている。

私は、サラリーマンであることを言い訳に、週に数名しか施術ができない。
このままでは、ダメだ、どんどん差がつくばかりだ。
本気でこの道を歩むなら、サラリーマンを辞めるしかない。
彼の存在が、私の背中を押しました。

会社を円満退職

私は、うつ状態からは脱してはいたものの、日々、会社の仕事に悩んでいました。

これが、本当に自分がやりたい仕事なのか。
一生、続けていくのか。
この仕事は、本当に人さまや世の中のためになっているのか。
定年後、自分は何をして生きていくのか。

それに対して、整体師の仕事は、自分の天職だと思いました。

自分の身ひとつで、生きていける。
一生、現役でいられる。
真に、人さまのお役に立てる、社会に貢献できる。
エネルギーも、資源も、無駄にしない。

長年、探し求めていた道。
それがそこにあるのに、歩まない手はない。
家族や周囲の猛反対を押し切り、私は会社を辞める決意をしました。
そして、上司や同僚の理解も得られ、円満退職をしました。

長期コース(達人コース)へ

退職とほぼ同時に、日本回復整体総合学院の長期コース(当時の名称は「達人コース」)へ通い始めました。
先に述べた、友人も一緒でした。
学費は、約300万円(技術セミナー併せて)でした。
なぜ、そんな高額を支払ったか。
それは、どうしても、村松先生に教えて欲しかったからです。
村松先生から学ぶには、そこへ行くしかなかったのです。

達人コースは、2008年6月に入学し、同年の11月に卒業しました。
ここで得た仲間たちの多くとは、今も付き合いがあります。
彼らの存在は、何ものにも代えられない、宝ものです。
たいへん高い授業料でしたが、このコースへ行って、本当によかったと思っています。

ついに一国一城の主、整体院開業へ

「心身楽々堂」を開業

2008年8月1日、地元である枚方市楠葉で、整体院「心身楽々堂」を開業しました。
当時は、賃貸マンションの一室で、施術をしていました。
住居専用マンションであったため、集客もできず、すぐに店舗を探し始めました。

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「心身楽々堂」店舗を移転

2008年11月23日、現在の場所へ店舗を移転し、再スタートを切りました。

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