日々、整体施術の仕事をしていると、目覚ましい症例に少なからず遭遇する。
【注】ここでいう症例とは、病気や症状が治癒した例を指す
– 十年以上悩んでいた腰痛が、数回の施術で解消した。
– ずっと頭痛薬が手放せなかったのに、まったく不要になった。
– あんなに頑固だった肩こりが、気にならなくなった。
– めまい、うつ症状で休職せざるを得なくなったが、すっかりよくなった。
– 10年近く苦しみ、2年間病院に通って治らなかった逆流性食道炎が、2ヶ月で治った。
– とても危険だと言われた外科手術を、痛みも後遺症もなく、乗り切った。
– 癌を克服した。
– 不登校だった子供が、喜んで学校へ行くようになった。
時として「先生!すごいですね!魔法みたいですね!」と言われる。
とても嬉しく思うが、ちょっと違うなとも思う。
決して、私がすごいわけではないからだ。
また、私が使っている技術がすごいわけでもない。
もちろん、魔法でもない。
本当にすごいのは、みなさんの身体なのだ。
畏怖し、敬意を表し、感謝すべきは、自然の力であり、いのちの営みなのだ。
だから私たちは、常に謙虚であらねばならない。
目覚ましい症例は、素晴らしい自然の風景のようなものだ、と思う。
人が創造したものではない。
偉大なる自然の力が織りなしたものである。
とすると、私たち整体師やセラピストの仕事は、ツアーガイドのようなもの。
絶景ポイントへと道案内するのが、役割りである。
もし、ガイドさんが絶景を指して、自分の手柄のように喧伝したらどうだろう。
「ほら!素晴らしい景色でしょう!私が発見したのよ!私、すごいでしょう!」
私なら、興ざめする。
もちろん、連れてきてくれたことには、心から感謝する。
でも、あなたは連れてきてくれただけで、この風景はあなたが創造したものではない。
そう言いたくなるだろう。
一緒にその絶景を味わい、自然の素晴らしさに感動し、自然を慈しむ。
よい時間を共にする。
そんなガイドさんに、私はお願いをしたいと思う。
さて、ブログやFacebookのウォールで時々目にする光景。
「○○○式はすごい!○○○療法、最高!」
・・・と、目覚ましい症例を取り上げ、自分たちの手技や療法を賞賛する人たち。
批判や非難をするつもりはないが、私は違和感を感じる。
絶景ポイントを発見した努力は認めるが、それはもともとあった風景だ。
なぜ殊更「○○○式」を強調したがるのか、疑問に思う。
○○○に人名などが付いていると、さらに違和感を感じてしまう。
しかも、その絶景ポイントは、過去に何人もの人が到達している場所。
それを知ってか知らずか、さも自分が初めて発見したように喧伝している姿には、辟易する。
言い過ぎかもしれないが、不遜で傲慢、恥知らず、そう感じる。
余計なお世話かもしれないが、とても気の毒に思う。
それはさておき、私が信頼し、尊敬する、大好きなガイドさんがいる。
彼女は自然を愛し、敬い、慈しみ、素敵な写真を撮り、絵を描き、心に響く詩を綴る。
哲学だとか、信念だとか、難しいことは言わない。
絶景ポイントへ一緒に行った際も、ただニコニコして、嬉しそうに風景を眺めている。
そこへ至る道のりも、一緒に心から楽しんでくれる。
道端に咲く草花の名前や、土地の言い伝えをわかりやすく説明してくれる。
時に歌い、祈りながら、自然と一体になる至福の時間。
私は、彼女の生き方、彼女が発するメッセージに、多くの気付きと学びをいただいている。
単なるツアーガイドではなく、人生のガイドでもある。
遠く離れて暮らしていても、彼女との出逢いとつながりは、人生の宝である。
自然を愛し、敬い、慈しむ。
ご縁のあったみなさんと共に、よき人生を歩む。
旅路を楽しみ、時々は息をのむような絶景に遭遇し、共に感動する。
私は、そんな整体師でありたいと思う。