私がパソコンに興味を持ったのは、1990年前後だと思う。
もともと、機械の操作は大の苦手。
コンピューターなど面倒なものは、もってのほか。
しかし、「モバイルコンピューティング」という言葉が私を魅了した。
外出先や移動中に、鞄からラップトップパソコン(当時はそう呼んでいた)を取り出し、いつでもどこでもバリバリ仕事をこなす。
まだ若く、仕事中毒だった私は、そんなビジネスマンのイメージにシビれたのだ。
だから、初めて自分で買ったのは、ノートパソコンだった。
アップル社のPowerBook520という、モノクロのマシンであった。
ハードディスク容量は、320MB。
モバイルコンピューティングが出来るように、モデムとバッテリー2基を搭載。
結果、重量は3キロ以上になった。
それでもやせ我慢し、本やら書類やらで、ただでさえ重い鞄にノートパソコンを押し込んで、さらに重くしていた。
当時は、勤務先でも、パソコンは部署に数台ある程度。
ネットワークインフラも整っていない。
もちろん、個人のパソコンを社内ネットワークに接続するのは、厳禁であった。
だから、たいしたことは、できない。
せいぜい、書類や報告書を作ったり、メールを送受信する程度。
そのうちあまりの荷物の重さに吐きそうになり、ノートパソコンを持ち運ぶのはやめた。
以来、関心はPDA(Personal Digital Assistants)へと移った。
実は、伏線として、fILOFAXというシステム手帳の利用があった。
あらゆる情報を手帳一冊に詰め込み、それ一冊を持ち歩けば、いつでも、どこでも仕事ができる。
そんなビジネススタイルに憧れ、実践した。
スケジュールやアドレスはもちろん、to doリストやメモ。
進行中プロジェクトの進捗状況や関連情報。
その他、地図やショップリストなど、あらゆる情報をとじ込んだ。
だから、私のfILOFAXは、「グランド」という大口径バインダーモデルであったにも関わらず、すぐにパンパンになってしまった。
重量的にはさほどではないが、肥満した姿は、あまり恰好のよいものではなかった。
情報をデジタル化すれば、革命的にサイズを小さくできる…
PDAは、すぐに私を魅了した。
シャープのザウルスに始まり、カシオのCASSIOPEIA、IBMのWorkPad(Palm PilotのOEMモデル)、SONYのCLIEなど、使用したモデルは20台くらいになるだろうか。
NOKIAの携帯電話と赤外線(つまりワイヤレス)でつなぎ、メールの送受信なども行った。
しかし、惚れ込んだPalmOSが下火になるにつれ、私のPDA熱も冷めていった。
しばらくは、またシステム手帳に戻った。
数年後、私のPDA好きに再び火をつけたのは、アップル社のiPhoneである。
これぞ、究極のPDA!
私は、iPhone3GSに夢中になった。
最後に使ったPDAであるSONY CLIEのデータ容量が、確か16MBだったと思う。
それに比して、iPhone3GSは、なんと32GB!
しかも、通信機能がある!
さらに言えば、私がサラリーマン時代はごく一部の高額な機器でしか実装してなかったタッチスクリーン操作ができる!
これを革命と言わずして、何と言おう!
以来、iPhone5に機種変更し、現在のiPhone6に至る。
いずれにせよ、iPhoneは夢が現実になったようなPDAである。
恐ろしいくらい、高性能かつ多機能である。
そう、実は本当に恐ろしいのだ。
GPSを搭載し、高性能カメラを備え、常時ネットワークに接続されているiPhone(に限らずスマートフォン全般)は、私たちの情報を盗み取り、会話を盗聴し、動きや所在地を把握する、支配のための道具でもあるからだ。
それを、私たちが、自ら喜んで肌身離さず使うように仕向ける…
“彼ら”の頭の良さ、計画の巧みさ、実行の着実さには、感服する他ない。
でも、私はさほど心配していない。
どんなに頑張っても、私の頭の中身をすべて吐き出すなど、不可能だからだ。
それどころか、自分自身さえ気付いてない未知の可能性は無尽蔵だ。
だから、私は今日も、ガンガンiPhoneを使う。
私の生を実践し、記録するために…
このたび、強力な助っ人が現れた。
BluetoothでiPhoneとワイヤレスで接続する、Microsoftモバイルキーボードだ。
これのおかげで、ノートパソコンに匹敵する文章入力が出来る。
しかも、ノートパソコンより遥かに小さく、軽い。
何のためのモバイルコンピューティングか。
何のためのPDAか。
いちばんは、自分の想いや志を育て、磨き、確認し、伝えていくためだと思う。
自分の裡にあるさまざまなもの、次々とわきあがってくるもの。
それを言葉というカタチにし、文章で表現し、人に伝え、同志を見つけ、共に行動する。
そうやって、自分の今生における使命を果たすために、これらを駆使しているのではないか。
私は、そう感じている。
“彼ら”の支配欲が、勝利をおさめるのか。
それとも、下々の私たちが立ち上がり、結束し、社会を変革するのか。
岐路は近い、急がねば。