昨日、東京にて「スーツデモ」というのがあったらしい。
約600名が参加し、スーツ姿で脱原発を訴えたそうだ。
facebookの投稿などを見ていると、好意的、肯定的な意見や評価が大半を占めるようだ。
でも、私は違和感を感じる。
デモはいいが、それだけで終わるなら、単なる自己満足だ。
口先だけでなく、行動して欲しいと思う。
原発がなくならない根本原因。
いろいろあるだろう。
私は、いちばんの原因は「企業偏重社会」にあると思う。
企業偏重社会とは、個人よりも企業の利益や存在を重んじる社会のことである。
すべての企業は、自社の利益獲得のために活動する。
個人の幸せや、将来の社会のことなどは、二の次、三の次である。
なぜか。
それは、組織を維持するためである。
莫大な設備投資を回収するためである。
社員の雇用を守るためである。
だから、企業は、必ずしも人のため、社会のためになるものを作らない。
売れるものを作るのが、至上命題である。
そのためには、手段は問わない。
一にも、二にも、利益獲得のため、企業は死力を尽くす。
おそらくそれは、永遠に変わらないだろう。
アメリカの先住民族は、何か大きなことを決める時は、7世代先の子孫や社会のことを考えていたそうである。
現代の企業は、そんなことは考えない。
自分さえよければいい。
今さえよければいい。
私は24年間もそこに身をおいたので、よくわかるのである。
表向きには、人のため、社会のためと言う。
きれいなコマーシャルを作り、よいイメージをふりまく。
立派な企業理念があり、素晴らしい社是がある。
でも、やっていることは違う。
もちろん、例外はある。
世のため、人のためにビジネスをしている企業もあるだろう。
しかし、大半は違う。
組織存続、利益拡大のために、ビジネスをしているのだ。
添加物まみれの加工食品。
壊れることを前提に設計される家電製品。
モデルチェンジばかりする自動車。
病人を増やす医薬品。
健康を害する生活用品。
人間を愚劣化し、堕落させる娯楽。
詐欺に近い保険。
それを開発し、製造し、流通させているのは、サラリーマンのみなさんではないのか。
規模の違いはあれど、社会毒という意味では、原発と同じではないのか。
企業偏重の社会構造。
それを変えない限り、原発はなくならない。
もし万が一、原発がなくなっても、人類を脅かす次の火種が生まれてくるであろう。
問題の本質は、原発にあるのではない。
原発を生み出す社会構造に、本質的な問題があるのだと私は思う。
そして、その社会構造を支えているのが、サラリーマンの存在だ。
まずいことに、彼らにその自覚は無い。
スーツを着たサラリーマンが脱原発を訴えてデモをするのはいい。
しないより、マシだろう。
問題は、次の行動だ。
デモに参加した、俺達も声をあげた、マスコミに取り上げられた。
その自己満足だけに終わらないで欲しい。
個人で出来ることを実践して欲しい。
それが、脱サラリーマンだ。
スーツデモに参加した、サラリーマンのみなさん。
いま、自分がやっている仕事に、絶対の自信と誇りを持っているか。
世のため、人のためになる製品やサービスを提供していると胸を張って言えるか。
子供たちの、子供たちの、そのまた子供たちのことを考えているか。
すべてにイエスなら、それでいい。
素晴らしい仕事だ。
そのままサラリーマンを続ければよい。
しかし、もしそうでないなら、東電を批判するのは、目くそ鼻くそを笑うに等しい。
原発も、ビジネスだ。
生活かけて、必死で働いているサラリーマンが、たくさんいるのだ。
自分のやっていることは棚にあげて、彼らを批判するのはお門違いだろう。
それだったら、デモになど参加するな。
口先だけで、行動しない。
常に周囲の様子をうかがい、損得だけで物事を判断する。
臆病で、ずる賢い。
愛も、信念も、哲学も持たない。
日本は、そんな人間ばかりになってしまった。
だから、原発が無くならないのだ。
特に、男たちよ。
脱原発より、まず脱サラリーマンを。
自分の足で立て。
自分の頭で考えろ。
自分の腕で闘え。