私が30歳前半、まだサラリーマンだった頃、本気で転職を志望していた。ただし私の場合、ちょっと変わっていて、転職情報誌を見るのではなく、「この人は!」と思う人に手紙を書き、電話をかけ、直接会いに行くという方法をとった。
その一環で、私が心から尊敬する人から紹介を受けて、某大手流通グループのマーケティング会社の社長に手紙を書いた。幸いにも、会ってもいいと返事をもらい、会社を訪ねた。通された部屋には、その社長以外に、会長と呼ばれる初老の男性が座っていた。
社長はカジュアルな服装で、穏やかそうな人物だった。それに対して会長も静かな印象を受けたが、高級そうなスーツを着用し、靴はピカピカ、眼光が鋭く、威厳があった。やや長髪の白髪は、丁寧に整えられ、肌は浅黒かった。実力でトップに上りつめたであろうことが、雰囲気から察知することができた。
しばらくの間、私は、自分はなぜここに来たのか、今までどんなことをやって来たのか、これからどんなことをやりたいのか、思いの丈を話した。すると、黙って聞いていた会長がおもむろに言葉を発した。静かだが、低く、地の底から響くような声だった。
「ほんで、きみ、いくら欲しいねん」
直球を投げられ、どぎまぎしたが、当時の税込み年収が約600万円だったので、それと同等以上が欲しいと伝えた。会長は、しばらく目を閉じ、ひと呼吸置いたあと、次のように言った。
「あまいなあ!」
身が縮み上がるような思いだった。会長は、言葉を続けた。
「よっしゃ。わかった。今、わしはきみのこと何にも知らん。そやけど、きみのその度胸に免じて、一年目は望み通りの金額出したるわ。しかし、一年目で少なくともその3倍は稼ぎや。わしに実力見せてや。そやないと、二年目はないで。それでよかったら、面倒みたるわ」
やった!と思ったと同時に、急にものすごく怖くなった。当時、下の子がまだ赤ん坊だった。上の子も、3歳くらいだったと思う。もし、自分が一年目で自分が十分な成果をあげられなかったら、彼らを路頭に迷わすかも知れない…
「考えさせてください…」
情けないが、そう答えるのがやっとだった。未知の職場や環境の中、あの怖い会長のもとで、自分に何ができるのか、全くわからなかったからだ。しかし、当時の仕事に全く可能性を感じず、なんとか現状を脱したかったのも事実である。1日考えて、社長に電話をした(会長ではない)。ドキドキしながら、次のように言った。
「やらせてください」
すると、社長はやさしく次のように話してくれた。
「あのね、光を求めてたらあかんのよ。きみ自身が灯台にならんと。それができひんのやったら、この仕事はできんのよ。この世界ではやっていけんのよ」
ものすごく心に響いた。同時に、とても恥ずかしく、とても情けなかった。地に叩きつけられた思いがして、深く頭を垂れ、今の自分には無理です、たいへんありがとうございましたと伝えるのがやっとだった。そして、電話を切った…
それ以降、自分が灯台になるとはどういうことか、考え続けた。そして、あれから30年近くが経過し、やっと自分も、小さな小さな灯台になれたかも知れないと思っている。そして、今は「小さな灯台」を育てることを生業としている。そして、立派に育った灯台が、また小さな灯台を育て、この社会が明るくなることを目指している。
あの時に出会った会長と社長、わずかな接点しか持たなかったが、何冊もの本を読むより、ずっと大きな宝物をいただいたと感じている。もしお会いする機会があったら、心からの感謝を伝えたい。