こうありたい。そんな、とても大切なことが書かれた文章に出会いました。「1/4の奇跡」という本の中にある一節で、筆者は柳澤 桂子さんとおっしゃる生命科学者であり、歌人です。抜粋しようと考えたのですが、全文を読まないと大切なことが伝わらないと考え、まことに勝手ながら、全文転載いたします。
さて、この「1/4の奇跡」、副題が“「強者」を救う「弱者」の話”なのですが、山元 加津子さんとおっしゃる特別支援学校の教諭をされている女性が経験されたこと、気付かれたことを中心に、様々な方が寄稿をされています。素晴らしい内容ゆえ、ぜひ多く方にお読みいただきたいと思います。
生物は多様性に富み、それは生存し、種を継承するために必要不可欠なことだそうです。人間も全く同じです。その一環として一定数「障害」として顕現する遺伝子をもった子どもが生まれるのは、絶対に避けられない。それは多様性の表れであり、人類の生存や種の継承に必要不可欠なことのようです。
私が、マスク常用をはじめとする「新しい生活様式」に断固反対の立場をとるのは、それが「異なるものを許さない」という、多様性を尊重することと真逆の方向を目指すからです。ワクチンの危険性もさることながら、その背景にある思想がいかに危険であるか。それに気付く人が増えることを願ってやみません。
大樹は決して誇らない
私たちは、悲しいまでに、他人の心を知る能力に欠けています。
他人の苦しみや悲しみは、それが動作として、あるいは言葉として表れたときに初めて、推測することができます。そして、このようなときに、言葉というものがいかに頼りにならないかということも、多くの人が経験していることではないでしょうか。
言葉という情報交換の手段に頼れなくなった時、苦しむ人々に、手を差し伸べることができるでしょうか。それは、非常に難しいことのように思われるかもしれません。
だが人間には、人を癒す能力が備わっている。また、癒しを受ける能力も備わっている。私は、そう確信しています。
しかし、人を癒す能力は、傷ついた相手を「助けよう」と思ったその瞬間に失われてしまう。そういった類のものであるように私は感じられます。ではどうすればよいのでしょうか。
まず、「癒す」と言う気持ちを捨てることです。そして、苦しむ人を、あるがままの状態で受け容れ、いかなる価値基準でもその人を判断しないことが必要なのではないでしょうか。
ちょうど、太陽の照りつける道を歩んできた旅人に、涼しい木陰を提供する大樹のように、無心になることです。自分の枝の長いことも、葉が豊かなことも、樹は決して誇りはしません。木陰で休む旅人の心を傷つけるようなこともしません。ただ、黙ってそこに立っているだけです。
150億年といわれる宇宙の歴史の中で、一瞬とも言える人間の一生をたまたま共有して生きている人。この広大な宇宙の空間の中で、偶然にも自分の隣人として生きている、この希有な人。
そのようなスケールで相手を見つめる時、そこには、相手に対する畏怖の念が生じるのではないでしょうか。
お互いに不完全な人間であり、お互いにはかない存在であることを知り、信頼し合うことによってお互いの心が開かれ、血が通いだすでしょう。
これを、「相手を愛する」と言う言葉で表現してよいかもしれませんが、愛という言葉には長年使われている間に、いろいろなニュアンスが染み付いてしまっています。
愛を、言葉で定義する事は難しいことですが、私は、これから説明するような意味において、この言葉を使いたいと思います。
人間は、自己中心的な動物です。おそらく、脳の神経回路の中に、自己と他者を区別して識別するようなプログラムが先天的に組み込まれているのでしょう。
また、私たちは生きていくために、食物や道具を蓄えておくという知恵も先天的に持っているようです。
この自己中心性と所有欲は、いずれも生存にとって必要なプログラムですが、「我欲」の原因ともなり得るものです。
我欲から目を離し、それを捨てることができたとき、その代わりに心に満ちてくるものを、私は「愛」と考えたい。人間が我欲を捨てる事は非常に難しいことですが、それを捨てた分だけ心を満たすものが愛である、と思っています。
我欲を捨てて、相手の心にできるだけ寄り添ったときに、そこに生まれてくるものが愛であり、それは限りなく美しいものである、と私には感じられます。
同じ道を歩む人生の旅人として、葉の豊かな大樹のように、いつでも快く相手を迎え入れ、相手に気後れも遠慮も感じさせず、自分の全てを受け容れられたと感じさせるような状況を提供することが、医療者でも聖職者でもない、私たちにできる唯一のことではないでしょうか。
————「1/4の奇跡」p.32〜より転載