先日、母のことを書いたので、父のことも書いておこうと思う。
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私の父は2年前、91歳で他界した。転倒により大腿骨頸部を骨折して、緊急入院。手術をする必要があり、脳血流改善の服薬を中止したことがきっかけとなったのか意識不明となり、徐々に衰弱し、そのまま亡くなった。まあ老衰と言ってよいだろう。
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父は有料老人ホームに入居していたものの、転倒するまでは自立歩行していたし、食事も排泄も入浴も介助は不要であった(入浴のみ付き添いをしてもらっていた)。入院期間は2週間足らずだったので、“ピンピンころり”とも言ってよいだろう。
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母が亡くなる時まで、父は自分でクルマを運転していた。今思えば、近所の買い物だけと言えど、89歳と87歳の老夫婦のみでドライブするなど無謀極まりないと思うが、両親とも年齢を忘れてしまうほど元気だったのである。母の死がきっかけとなり、父に若干の認知症状が出始めたため、即刻運転はやめさせたが……
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父は、昭和3年生まれ。戦時中に思春期の大半を過ごし、戦後復興期に成人して社会人となった。高度経済成長と共に企業戦士として働き、不本意な配置転換や単身赴任も経験しつつ、定年退職まで一つの企業で勤め上げた。真面目で平凡な人間であったが、歴史の波にのまれストレスの多い半生であったと思う。辛いこと、苦しいことも多々あったと思うが、家族の前で愚痴や弱音を吐くことは一切なかった。
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父は、58歳で定年退職を迎えた。人付き合いが苦手な父は、この時をずっと楽しみにしていたのであろう。再就職はせず、それ以降は自宅で過ごすことが常となった。当時は好きなゴルフをしたり、プールへ泳ぎに行ったり、母と旅行をしたり、庭仕事に精を出したり、少し絵を描いてみたり、悠々自適という生活ぶりだった。
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しかし、年齢を重ねると共に、徐々に行動範囲が狭くなってきた。外出はせず、自宅で過ごすことが大半となった。話し相手は、母のみという毎日。父の生活は、新聞を読むこと、テレビを観ることがほぼ全てとなった。85歳を過ぎた頃からは、新聞も読まない、テレビも観ない、一日中、何もせずソファに座って庭を眺めているか、居眠りをしているか。
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そんな無気力そうな父を間近で見ているのは辛い、ボケるんじゃないかと心配でたまらないと、母がよくこぼしていた。そんな父も食事だけは楽しみらしく、食事の支度が済んでないのに食卓へつかれるのが、母は嫌でたまらなかったようだ。母の愚痴を聴きながら、私は傲慢にも「自分は生涯現役を貫く。絶対に父のようにはなるまい」と思っていた。
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母が亡くなってから、父はいっそう無気力になった。夕刻になっても、部屋の照明を灯そうともしない。私が元気付けようと声をかけた時に、滅多に感情を表に出さない父が「何もやりとうない、もう生きてるのが嫌や」と叫んだこともある。特に仲の良い夫婦ではなかったが、母がいなくなったことは、父にとってこの上ない精神的痛手だったに違いない。
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身の回りのことを全て母が面倒を見ていたため、父は独りでは何もできない。また記憶が曖昧になる、自分の思い通りにならないものを破壊するなど、異常行動が目立ち始めたため、自宅で過ごさせるのは危険と判断し、施設(有料老人ホーム)に入居させることにした。
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もともと人付き合いが苦手で、出不精だった父は、施設に入居してからも、食事のために食堂へ行く以外、自分の部屋から出ることはほとんどなかったようだ。本や新聞を読むことも、テレビを観ることもなく、人との交流を避け、終日安楽椅子に触り、何もしない。施設のスタッフが体操や散歩に誘っても、応じない。私が食事や買い物に誘っても、首を横に振るばかり……
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それでも、若干の認知症状はあったものの、父がボケることはついになかった。退屈だろうから、あるいは老化防止のために、人と会話しなさい、本や新聞を読みなさい、散歩や体操をしなさい、楽しみのために一緒に出かけましょうと私たちが助言するのは傲慢極まりないことであり、父にとっては余計なお世話であり続けたのかも知れない。
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もしかしたら、人生前半において激動の時代を生きた父は、人生後半において「無為」、つまり「何もしない」という究極の生き方を探求していたのかも知れない。そして最期は静かに枯れるのを待ち、母に会いに行くことを楽しみに暮らしていたのかも知れないと、今になって思うのである。